昭和五十六年十二月八日 朝の御理解


御神訓
「懐妊の時腹帯をするより心に真の帯をせよ」


 一般には、産みの苦しみという事を申します。けれども、教祖は隣知らずの安産と教えられております。お道の信心をもってすると隣知らずの安産のおかげとこういう。懐妊、そして出産、そのまあ云うなら十月十日の間というものは決して楽ではなかろうけれどもね。腹帯をするよりも真の帯をせよと仰せられる真の帯がでける時、私は産みの苦しみとか又懐妊の為のいわゆる難儀というかむしろ喜びとして受けられる。
 そりあ一般でも挨拶にでも懐妊のおかげ頂いた、そりあお目出度うございますとしか云わん。そうりあ困った事ですねなんて云ひやしません。やっぱ目出度いのです。ね、ですから本当にその目出度いものにする為にも、いわゆる真の帯をさしてもろうてそれこそ隣知らずの安産のおかげを頂かなければならん。
 まあ懐妊そして出産の、私は子供が七人居りますから、そりあもう前から信心は致しておりました。けども、長女長男の場合は北京時代ですから、信心はしておると云うてもいわゆる真の帯をしてなかったんですね。いわば、只苦しいからお願いしますお願いしますという信心。もう本当に二人とも難産でした。
 特に長男、若先生が場合なんかは假死状態でしたから、もうぼろに包んで廊下に放り出してあるくらいでした。それで母親の方が大切だからと云うて産婆さんがうおうざおうするくらいでした。それがすんでから、してまあ熱い湯につけたり冷たい水につけたりいろいろたたいたりしてようやくまあその産声を上げたというように難産でした。
 けれども、引き揚げて帰ってくる時に懐妊のおかげを頂いとったのが今椛目に行っとります愛子ですけども、もうそら真剣に神様をすがらなければこちらへ引き揚げて帰ってくる時ですから、やはり真の帯がだんだんでけて来ておった。もう逆産で難産かもしれんと皆が云うておりましたけれども、それこそもう本当に安産。それ以来というものは、いわゆる五人の子供達は隣知らずの安産でした。 出産の時に快感などというような事があるはずは私もないと思うばってん家内は気持ちのよいぐらいじゃったと云いますからね。だからここでは懐妊のおかげ頂くと親奥様にお願いする。又不思議におかげを頂くんですよね。やはり体験という事はそのまま力ですね、はい。そういうふうにね、いうならばそのただ普通では産みの苦しみでしょう。やはり十月十日の間も難産な事でしょう。
 けれども真の信心の真の帯をせよと仰せられる信心の教えに基づいて、まあいうならば出産は合楽理念をもってする他はない、というように合楽理念の実験実証を出産の上に現わし得たら、私隣知らずの安産のおかげが受けられると思う。そこには産みの苦しみといったような事はないもんです。
 これは出産だけの事ではありません。本当の意味においておかげが産み出されるという事の為には、そんなに簡単な事ではないと思うです。簡単というのがその、やはりもよおしがありね。まあ普通で云うならば産みの苦しみというものは伴のうてくると思うのですけれども、それを言わば隣知らずの安産というようにそのおかげが生み出されてくる。だから、おかげが心にとまる。いうなら懐妊のおかげ頂くと同じ事ですからね。それを大事に大事にしていく。いうなら安産のおかげを頂かんなり、おかげもそうですね。出産というだけじゃないです。それには本当に私は合楽理念の行者たらんという願いを立てなきゃいけんと思う。
 どうでしょうか皆さん一人一人が思うて見て下さい。自分はなるほど毎日毎日日参しょるばってん、なら合楽理念に基づく日々であろうかと。いわゆる実験実証がでけておるだろうかと。それではやはり苦しいです。そりゃどうぞどうぞと云うてお願いするからおかげは頂く。いうなら難儀なら難儀でも出産のおかげを頂くに致しましてもです、それでは折角信心をさせて頂いとる真の帯をせよと。合楽ではそれを“合楽理念の帯をせよ”という事にもなるかも知れません。ね。
 行じてない自分にびっくりするくらいに一つね、あのうはあ、毎日参っておって本当に合楽理念をどれだけ実験実証しておるだろうかと思うてみていよいよ合楽理念の行者たらんという祈り願いを持たなければいけない。いわゆる真の帯をしなければ駄目だとね。只苦しいから、ただ参りよります。この事ばお伺いせんならんから参りよりますというのでは、じゅっないお参りが。
 昨日ブラジルから手紙が便りがまいりました。今度ブラジルの大きい新聞に金光教の信心を取り上げ宗教欄に。それを本部の方から原稿依頼をした。合楽にも云ってきた。合楽に、もうおそらく原稿送ったでしょうか。所が本部の方から連絡があった。それにはね、あちらの教会長が海外布教は合楽理念をもってする他なしといったような、合楽理念合楽理念というておる時に金光教の本部から原稿を送ったら合楽理念を認める事になるからお断わりという手紙が来たそうです。
 私はそれを聞いて本当にびっくり致しました。ねえー本当にこげなチャンスは無いです。南米なら南米に金光教の信心を広く皆さんにも分かってもらおう。当然本部からいわゆる教祖金光大神の信心を、そりゃあ合楽あたりと違って本部の事ですから素晴らしい文章で原稿を送られるとばっかり思うとったらね、海外布教は合楽理念をもってする他ないというように、合楽理念を先頭に立てるような所にもし本部が原稿を送ったら合楽理念を認めた事になるからお断わりち。
 皆さんどう思われますか。そしたらさすがに末永先生ですね。これはおかげだと思いましたと云うんです。いよいよ南米は合楽理念をもってする他ない。そういう腹がいよいよ決まりましたと云ってます。私もちょっと驚きましたです。成る程合楽が本部に対して弓を引くといったようなふうに云われるはずだと。何か合楽理念は金光教じゃないようにこう言ってるわけですね。
 ただ合楽教会の合楽という小さい見方をしているわけですね。いつも申しますようにいろんな取り沙汰をされておる合楽ですけれども、それはね分からんなおるのです。誤解なんです。だからその誤解が解け分かるところが分かったら、その分かった人が誤解しておった人も必ずおかげを受けるのです。信心が進むのです。というふうに私は申します。
 誤解なんです。分かってないのです。だからほんならそれをなら研究してみようとか本当に合楽理念というのは間違いかというような事を正してはみずに、もし本部から原稿を送ったらね合楽理念を認める事になるからお断わりとこういう。本当に私はなんと小さい事を云うのだろうかとこう思いましたけれども、先生が云っておるようにこりゃあおかげだとこう頂いているわけですね。こりゃあもういよいよもって合楽理念をもって南米布教は合楽理念をもってする他はないという合楽理念ですから、原稿を倍にして送って下さいという手紙でした、ね。
 例えば、南米の地になら金光教の信心によってたくさん人が助かるような次々と生み出されていく事の為の私は、まあいうならば産みの苦しみがあるでしょうけれども、それをなら末永先生のような頂き方をすれば苦しみじゃないでしょうが。かえっておかげと云っておるのですからね。いわゆるおかげとして受けられる心なんです。私もそれを読んで聞かせてもらいながら丁度その時に椛目の妹が参拝してきとりました。
 そして、今日御祈念の時に、“和すれば乱れる事なし”と頂いたそうです。和すればと云うと和賀心の和ですよね。和すれば乱れる事、心を乱さんでもよいと云うのでしょう。只こういう事を頂いとりました事もありますし、末永先生自身がかえってこれはおかげだと頂いておるのを聞いて、まあ云うならば本当に本部の考え方のこまい事には悲しいまでの思いをして心を乱した事でしょうけれど、乱すどころかこりゃいよいよ合楽理念がより大きく産み出されていく事の為の私は働きだなあというふうに、その事に悪口を例えば云われておるその悪口に和していくというのは、それを有難く受ける心だと思うですね。
 だから、そこには一つも問題が残らない。何を云うかという事もいらん。だからいつも心が和しておかねばならない。いうなら合楽理念に基づいた物の見方考え方がいつもでける稽古をしておかなければならんという事になるのじゃないでしょうか。
 合楽理念合楽理念と云われても、本当に実験実証してそこに現わして皆さんがいって下さらないとです例えばそういう云うならば中にある今日の合楽理念ですから、成る程合楽理念は基づけば信者一人一人の上にもああいう比礼とおかげが受けられるんだというね皆さん一人一人が実証して下さらにゃでけんのです、ね。一つ合楽理念をどの程度自分達が実験実証しておるかという事をね思うてみて下さい。
 成る程難儀は難儀ですから苦しい事もあろう。いうならばその懐妊のおかげを頂いたら何ち言うですか、つわりなんかのようなね難儀なものもありましょうけれどもね、いうならば真心、真の帯をすればつわりも知らんなりに過ごす事の出来る程しのおかげをですね、云うならば日々の信心生活の上にも又おかげを受けていかなきゃならない。そのおかげの上にもこれは出産だけの事じゃないです。そういうおかげを現わして頂きたい。
 為には私が申しますようにおかげもそうだろうけれども信心を先頭に立てなさい。ここには信心の稽古に通うてくる所という信心を先に立てなさい。おかげは後からついてくる。と云うわけであります、ね。どうぞどうぞのおかげも願わにゃなりません。けれどもねその事を通して本気でね合楽理念に基づく稽古をしなければ駄目です、ね。
 云うならば合楽理念はまるっきり金光教じゃないような異端視されているわけですけれども、そういう異端視している人達にです合楽理念とはかくです、合楽理念とは金光教、教祖金光大神のもう云うならば真髄をいくものであり、だからお徳を受ける為に合楽理念、教祖金光大神の信心をいよいよ広く大きく現わしていく為には、合楽理念的信心に目覚めなければ。
 先だってから云うその記念祭ともなるとどこの教会でもやっぱり一通りおかげ頂く。信者、先生一丸になって精進しますから成る程その教会なりに立派な記念祭がでけるけれども、なら記念祭といや節年と云われるその節年から芽が出て又繁盛しなければならんのだけれども、又元の木阿弥に戻っておるというのが事実じゃないかと、その証拠には五十年、七十年というて長い経歴を持った教会が五年五年の記念祭の時だけはおかげ頂くけれども、後は元に戻ってしまっておるという事実があるじゃないかと。
 合楽の場合は、五年なら五年という事はいらん。一年一年それこそ日勝り月勝りにおかげを受けておる事実というものは、放っておいても自然に育っていくようなその根本土台が本当の所をふんまえておるからなんだと私は云っておりますように、皆さんとてもそうです。合楽理念を基にしたら、もう日勝り月勝り年勝りにです、十年の信心をすりゃ十年だけのおかげが現れとらなきゃうそです。もし現れていないならいよいよ間違っておるのですから、いわゆる信心の稽古という事ではなくて只おかげおかげ神様を例えば便利屋さんに使っておるような事の為の信心じゃおかげにならんです、ね。 昨日は研修の時に、昨日皆さんにも聞いて頂きました石田先生のあの年賀状を取り上げましてね、この年賀状のこの文句の中でどこが一番皆が感ずるかと。どこが一番有難いと思うかと云うて、皆それぞれに答えてもらいました。それこそ、そんなに気張った、気張ったという事でもないのに自然にその云うなら自分としてはこれが示現活動とか何とかと云うふうには気張っておられんのだけれども自ずとでておる、ね。
 「明けましておめでとうございます。        今般私共天地金乃神様、生神金光大神様、合楽様に一心を立てて信心生活に入る事になりました」
ここん所が皆やっぱ合楽様が素晴らしいと云うのです。私共夫婦、いわゆる合楽の信心に傾倒する。この中で一番私は素晴らしいと私が思い、又答えた先生方が居られましたが、
「神様に頂いた命。余生などとは申しません。喜びを開く道です」素晴らしいでしょう。私はここが一番素晴らしいと私は思ったんです。もう私共も年、よる年波で夫婦の者がです余生を信心生活に入りたいと思う。普通こんなのが普通ですよね。
 草野にちょっとした親分が居ってでしたが、草野時分の自分の友達を全部寄せて生きとる間に葬式をされた方がありました。もう今まで悪い事ばっかり云うならして来たから、これからはもう仏の何々といわれるようなおかげをまあ頂きたいというので、お金も持っておりましたからお金をかけてから大きな葬式をした。それで自分なもう死んだと、自分な生まれ変わってこれから仏様のような生活を余った余生をそういうふうに送りたいというような事を宣言された人がございました。
 それから間もなく亡くなられ、本当に亡くなられましたけれどね。だから本当に余生を云うなら信心三昧、仏教で云うなら念仏三昧の生活に入るといったようなものではないでしょう。余生などとは申しませんと云うてある、ね。喜びを開く道ですとこういう。それこそ生き生きとしたものを私はそこに感じるのです。どうでもね、そこに信心の稽古の焦点がその喜びの道を開く為に、なら合楽で教えを頂くのであり合楽理念を実験実証さして頂くのである。おかげを頂く道、おかげを頂かねばならんからとか、もう云うならばまあ余生をねその信心三昧に入っていくといったようなこう淋しいとかね。生き生きとしたものの感じられないような信心性ではないです合楽理念は、ね。
 もうそれこそ石川のお婆ちゃんではないけど八十三才になってもですやっぱりその宮崎中を駆け回って、合楽理念を説いてまわっていかれるといったようなあのうあり方というものが、私は合楽理念の実験実証とはそういう事だと思うです。そういう信心の帯をする事を私は真の信心の真の帯、いわゆる合楽理念を帯としてのおかげを頂いたら、腹帯をするいろんなものにすがるとかよかるというのではなくて真の信心の帯を締め直すといういわゆる本気で合楽理念に基づく生き方をですさして頂くときに、石田先生だけではない、皆一人一人がです喜びを開く道だという体験を受ける事が出来ますでしょう。
 昨日話しました事ですけれどもね、皆さんもやっぱ年賀状を出されるでしょうけども金光様のおかげでと云ったような文句、只謹賀新年ぐらいで出す。本当に自分が助かりをおかげを頂き喜びの道を開いておるならその事一言ぐらい年賀状の中に書けれる勇気がいると私は思うです。はぁ、あっちは金光様のこつば書いちゃる。本当の金光様の信心によって信心生活をしていきたいという本当に念願を持っていくならばです、合楽理念に基づく生き方を今年も又というような意味の事がね書けれるぐらいな勇気がいると思うです信心には。信心しとると云う事ですら内緒にしとかにゃんと云う人がありますからね、こげな残念な事はなか。
 例えば本部の方からお断わりと、それはもし本部から原稿を送ってあちらの新聞に掲載したら合楽理念を認める事になる。だからお断わりといったような事を聞きましてもね、それを即おかげと頂きとめておるという事が信心の真の帯がでけとらんとそういう生き方はでけんのです。いつも自分の心が和の心でなからねば、そのどういう問題にでも和していっていけれる和らぎ賀ぶ心で一切受けていけれるおかげを頂く為に今日の御理解の懐妊の時腹帯をするよりも心に真の帯をせよという事にならないのですと、皆さん心に真の帯がでけておるでしょうか。しちゃおるばってんずんだれよると違いますか。
 昨日或る人がもう朝の御祈念がすんでから参ってくるのが二、三人続いたんです。参ろうと思えば参られる人達です。朝の御祈念に。だから折角ならあんた朝の御祈念にお参りするようにせにゃなあと云おうかと思うたら、神様がね云うなとおっしゃる。大きなスパナと云うですかねじまわし、それに小さいねじをしめてもきかんでしょう。これがもう少し信心が育ってこのスパナですか、ねじまわしにあうくらいに育ってからしめるならしめよと、どれだけしたからどうちゅう事はない。いくらでけたようにあってもやっぱりゆるむ。ゆるんだ時はしめてやらねばならんが、この人達の場合は小さいのだからこう、しめんでもいいという事を頂いたんですけれども、お互いの信心、いわゆる信心が長くという事じゃないです。信心が育ってまいりますとね、神様の方も本気で信心を頂こうとすると神様も本気で信心を下さろうとする働きがおこってくるです。
 先ずは信心が育つためにもね、信心の帯をしっかりしてどのような場合でもそれに和していけれる、どのような場合でもはあこりゃおかげと頂いていけれ、なにかあるたんびにくうっとしたり心を乱したりするような事ではそりゃ折角の合楽理念というまあ素晴らしい教えを日々頂いておっても、その教えを頂かなかったらね同じ事です。何年繰り返しても同じ事。本気で一つ合楽理念の帯をして何か難、普通で云うなら難儀と感じる時にはそれこそ神様から懐妊のおかげを頂いたと思うて、その難儀を大切にしていこうと、信心の帯をするとその事自体がおかげとして頂けれるような一つおかげを頂きたいですね。どうぞ。